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2011年

米山雅彦(パンデュース)2011年11月10日

この季節になってくるとパン屋さんも忙しい毎日を送ることになってきます。
「パンデュース」でもマロングラッセ作りが終わったら、シュトーレン作りが始まります。11月の後半からクリスマス近くまでシュトーレンを販売します。(作って少し置いてから販売するので、11月の前半くらいから作り始めます。)
あと、11月の後半くらいからパネトーネ、クグロフも作り始めます。
もともとうちは「painduce」という店名で、“Boulangerie”も“Bakery”も“Baeckerei”も付けていません。「パンデュース」というパン屋のスタイルでいいと思って付けました。なので、このさまざまな国のクリスマス菓子も国内産小麦100%で作っています。(シュトーレンは国内産の全粒粉100%で作っています。)

そしてクリスマスを明けたら“ガレット・デ・ロワ”を作り出します。そのフイユタージュも国内産小麦100%で作っています。
お菓子屋さんほどではないですが、クリスマス・年末に向けて忙しい毎日を過ごしていきます。
そしてボジョレーの解禁日とクリスマス(っと、言っても近年は25日ではなくイヴがクリスマスで23日がメインのような気がします。)にはバゲットが多く買われます。
店の立地にもよると思いますが、最近は年末の食パンの買いだめの為に大量に食パンを作るという事がなくなっていると思います。もちろん、元旦から開いてある店も多く不便しなくなったからだと思います。そのバゲットも食パンも国内産の小麦粉で作っています。

ただ、その国内産小麦が危機的状況にあるように思います。不作続きで価格が高騰していっています。そしてTPP。。。もちろん日本の経済の事を考えると参加した方が、トータルではプラスになるように思いますが、基準を曖昧にしてスタートをすると、他の農作物同様に国内産の小麦も素材としては使えない価格になるように思います。そして小麦農家さんの後継ぎがいなくなる…。
「パンデュース」では、個人の農家さんの小麦も使わせていただいています。
熊本県の東さんが有機無農薬で作る“ミナミノカオリ”という品種の小麦です。すごく麦の香りが強くお気に入りの小麦のひとつです。
すごく真面目で温かい方で、こうやって一生懸命小麦を作ってくださる農家さんがあるのでmade in Japan のパンが作れると日々感謝しています。
そして日本の小麦を守るにはパン屋さんとしては、使い続けるしかないとも考えています。ただ、この先の政府の考え方次第では…。。。っと、いう事を考えながら今日も粉まみれになって必死にパンを焼いています。

多田征二(イグレックプリュス)2011年10月10日

クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワの講習会として先日、初講師として講習を終え、改めて伝統菓子の大切さと難しさを痛感する経験となった。
個人的に講習会を行なう事に不慣れでは無いが、緊張のあまり実は頭が真っ白になってしまった(笑)。
思い返すと自分が何を話して、どこの部分を皆様に説明していたのか正直、あまり覚えていない状態でした。
参加された皆様からは冷静にお話されていましたよ。と、お声掛け頂きましたが・・・
1ヶ月ほど前から、そのお菓子の歴史やエピソード、それに対しての僕自身の関わりを沢山書き溜めていたにもかかわらず・・・もっと僕がそのお菓子への思いや出会ったきっかけなど、ストーリーをお話したかったと反省。と言う事でココで少し説明。

ビューニュは僕が12年前に右も左も分からないままフランスのリヨンに降り立った時、早速、街を散策した時に「何だこの食べ物は?」早速、購入して食べてみて美味しい、イメージしたフランス菓子とは違ったがそこから色々、勉強勉強!
粉のブレンドを変えてみたり、厚み・時間を試作。でも、普通にフランス人が何気に作ったものが美味しい!何で??やはり「継続は力なり」伝統の持つ力は素晴らしい。

次に、グジェールに関しては最初の印象は「空っぽのシュー?」「う~~ん?」でした。そこでまたまた勉強、伝統として残っていると言う事は必ずそこに理由があるはず。僕的にたどり着いたのはやはりチーズ、日本で生活している時はそれぼどチーズに興味も無く、シュー生地にチーズが入っただけの物でしかなかった。
フランスには数え切れないほどのチーズがあり、その違いを勉強していく中で牛の種類(品種)、土壌の違いによる餌の違いから取れるミルクの違いがこんなにあるのか。しかも、夏と冬でも牧草に含まれる栄養分の違いで最終的に出来上がる商品にこんなにも違いが出る。驚く事ばかりで、その土地に合った材料、製法に意味があり粉、卵等も同様やはり伝統とは奥が深い。
話は戻るが私のお気に入りはサヴォワ地方のコンテチーズを使って、外側のシュー生地の部分が少なめになるような棒状に焼き上げたもの!でも、ついつい食べ過ぎになるので危険!危険!
ありきたりではあるが自然の偉大さ、自分の小ささ、勉強することの喜びにお菓子を通じて出会えた事に感謝です。
そのせいで、皆様の前で伝統についてお話する事に緊張したのかなぁ~~?自信が付くようにもっと勉強しなさいと言う事なのでしょう。きっと
来年はリベンジです。

林 周平(パティスリー モンプリュ)2011年09月12日

自分に出来ること!!義援金、募金、お菓子を通じての協力といろんなことが今も継続中です。しかしまだピンとくるものがない様におもいます。

9月に震災後初めて東京(関東)へいきます。神戸に住んでいる私は震災を経験していますが私の見る今回の震災はまだテレビやネットでのかぎられた枠での視界でしかありません。もちろん東京がこの中心であるとは思いませんが、より近くに行くことで感じるものがあるのではとおもいます。
しっかりと見、感じ、聴くことができればと考えています。日本の力を信じて。

最近想うこと!!自分がフランス菓子、フランスに憧れてもう25年以上になります。かっこつけてフランス菓子を作っているのではなくて、これしかやってきてないのでほかのものが出来ません。まだまだ日々作る中できずく事、感じること、発見があります。

去年、講習会のオファーが多かったです。今年、昨年同様多くのオファーを頂いています。講習会のお話を最初に頂いてからもう15~16年になりまが、私は、運よく思うとうりにこの仕事を続けてこれました。ジャン・ミエ、パリ、フランスでの経験をお店や講習会で伝えていく使命があるとおもいます。こんなに面白く楽しい仕事をぜひ多くの若いパティシエ、パティシエールに伝えエスプリを感じてほしいです。

昨年久しぶりに師匠ドゥニ・リュッフェル氏に会いました。第一声は、「美味いもの作ってるか」でした。なんか嬉しかったです。もう20年以上も前ラボを走りまわっていた記憶がよみがえってきます。この時代にジャン・ミエでいっしょに働いた二見氏が他界しました。すばらしい技術者で温かい人で奥さまにも親切にしてもらいました。仕事もプライベートも含め大変お世話になり今の私があるのは、二見氏のお陰で、何かあるたびに想いだします。私の中にはいつも氏がいるのです。こういったことが私の宝です。わたしは回りに非常に恵まれ幸せものです。感謝しかでてきません。そして、ありがとう。

渡邊雄二(ドゥブルベ・ボレロ)2011年07月31日

人類の経済活動が地球に悪影響を与えているためか、それとも、そんなことお構いなしに、ぶれのある太陽の熱射に対する地球自体の生理的活動なのか、、、、。この10年近く夏のパターンは多いに変化に富んでいるように思います。

2003年は欧州が大熱波にやられた記憶に残る年でした。
ワインはダメになるか、長期熟成不向きの完熟ぶどうワインとして製品になるか、ヴィニュロンの技量で別れました。プロヴァンスの養蜂は巣箱のミツバチが全滅して蜜がまったく取れないという事態にもなりました。
2009年は希にみる長梅雨で8月も雨天ばかり。その代わり9月が晴天続きでした。自店W.Boleroのプラタナスに毛虫が大量発生。
2010年は晴天続きの猛暑の8月で、北海道の小麦が干ばつで凶作となりました。

今年は早い梅雨入りと梅雨明け、いきなり猛暑到来。すべてがメリハリあって早く進んだと思ったら再び梅雨にもどった感じ。やはり夏は読めない。
先日の台風6号は関西に被害をもたらし、弊店のプラタナスも2本倒木しました。
さて、今年の早い夏の到来は5月の渡仏時に現れておりました。
W.Boleroは毎年5月に店を8日間閉め、フランスやイタリアに研修旅行に行くのです。
今年はブルターニュ&ノルマンディー、最後にパリ。今年の旅のほんの一部のことをお書きします。

原発事故の影響で、来日仏人も激減しエールフランスが気の毒にもガラガラ。
エコノミークラスが偽ビジネスクラスとなります。
パリに早朝着きモンパルナスからTGVでナントへ。初めて行ったナントは“なんと!”モダンな街でした。そこからレンタカーでゲランドの村へ移動。
そうのっけから、いきなりケルト人の遺産であるゲランドの塩田に。かれこれ10年以上使っている愛用塩のLe Paludierというメーカーをどうしても訪れたかったのです。

訪問約束時間よりも少し早く着いたので、周囲を車でうろうろ。
海水をまだ引き込んでいないゲランドの塩田はまるで弥生時代の遺跡みたいな不思議な光景でした。一個一個の塩田は小さい。たぶん面積が小さい方が塩の結晶化にムラがでにくいのだと思います。
海水を引くのは6月からだと聞いておりました。5月にいっても掃除しているだけだよ!と。
でも、行ってみたら、Le Paludierは既に海水をひき塩もできはじめていました。今年の5月は晴天つづきで気温も早くあがったので、いつもよりも3週間くらい早く海水をひき作り出したと。こんなことはなかなかないので、僕たちはラッキーだと言われました。

塩田、加工工房と全部署見せて頂き説明を受け、ゲランドの塩は機械的な部分がほとんどなく、ほぼ昔からの天候任せの自然塩であることが良く判りました。
パルディエとは塩職人という意味ですが、メーカーの従業員ではなくそれぞれ独立した自営業の塩職人とメーカーの関係は、ブルゴーニュでネゴシアンが葡萄農家からぶどうだけ買い上げるシステムと似ています。

その後、ブルターニュを2日かけていろいろ周り、ノルマンディー南部に入りました。
ノルマンディーで農場見学。その農場でもこの5月は天気が良すぎて雨が降らず牧草の育ちが悪いと。牛がどんどん食べてしまうのでこのままでは冬場の干し草のストックができず大変なことになると、農場のマダムは心配しておりました。

地球のいろんな所で、夏の差異があり、それぞれ一喜一憂している。
その農場はホルスタインとノルマンドを両方飼っておりましたが、ノルマンディーの乳製品の味の特徴は、搾乳量は少ないがその分味が濃厚であるノルマン種によるところが大きいです。しばらく常温にしておいた生乳をホイッパーで攪拌するとすぐ分離してバターになる。我々も手作業で作りましたが飛びっきり美味しい。

それと牛舎から自由に牧場にでてこられ、夜の8時でも外はまだまだ明るく自由に草を食べ続けている牛は、ストレスが少なく、人生(牛生といった方が正しいか)を満喫しているように私の目に写りました。牧場マダムには福島のことで哀悼の言葉をかけてくれましたが、もしも福島の牛がここに避難できればどれだけ良かったかと。
それだけノルマンディーの夏の牧場は爽やかな牛馬の楽園なのです。

パリの友人マークが運転してくれた走行距離は1200㎞。
当たり前のことですが、フランスは酪農王国だということを体感して参りました。
数日で回るにはブルターニュとノルマンディーは広すぎました。また出直したいと思います。(2011.7)

西川功晃(サ・マーシュ)2011年06月30日

今、私の頭に浮かぶことが3つあります。
東日本大震災後に、多くの先輩たちが支援活動に行かれています。頭の下がる思いです。私たちにも何かできないだろうかとずっと考えていましたが、今「ハートブレッドプロジェクト」という形でまとまってきました。

このたびのような災害や紛争、病気などで助けを必要としている国や、人々のためにチャリティーの気持ちがあたりまえのようにある日常をつくろうとしています。お店オリジナルのレシピで焼いたハート型のパンを販売して、その売上の一部を被災地や寄付を必要としている地域にプロジェクトを通して寄付するというものです。なるべく無理のない形で行い、賛同していただけるパン屋さんがふえて、末永く続いていくことを願っています。この夏、スタートする予定です。
5月に、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でデビューを果たされた、佐渡裕さん。子供のころから夢をはっきり持って、それを実現するために、常にどんなことでも全力投球してこられた結果だと思います。忙しい方ですのに、時々サ・マーシュのパン屋に来てくださいます。指揮をされる時とは違って、目を細めて優しい笑顔で、近況をお話してくださいます。とても勇気づけられます。私も、まだまだやることがいっぱいです。前を向いて、ひとつずつ取り組んでいきたいと思います。

そんな5月、サ・マーシュがテレビで放映されました。GWが終わってほっとしていた時にお店はパニックになりました。テレビの内容は、米粉を使って作ったパン「コメパーネ」という商品を紹介したり、お店の紹介をしたりの30分番組でした。放映前の、ゆっくり買っていただけていた状況とは打って変わり、お客様の反応は放映直後から始まりました。テレビの影響力の大きさに本当に驚きました。
私自身、オープンしてからまだ入ってなかったスイッチが入ったと思えば、とてもいい経験になったと思います。(2011.6)

林 雅彦(ガトー・ド・ボワ)2011年05月31日

東日本大震災で被災されました皆様にお見舞いを申しあげますとともに、一日も早い復興を心よりお祈りいたします。

パックやポワソン・ダブリルは長く厳しい冬がやっと過ぎ、春が訪れた喜びを祝うお祭りですが、日本でもこの時期はちょうど年度があらたまり、さまざまな出会いの季節でもあります。卵、ニワトリ、ウサギなどを象ったパックのお菓子やポワソン・ダブリルの魚の形のお菓子など、本当に魅力的なかわいらしいお菓子が、日本でも春のお菓子として定着してほしいという思いを込めて、これらのお菓子を出しています。

魚を象ったパイにイチゴをたっぷり飾った「ポワソン・ダブリル」。この頃は震災後まだ間もなく、こういった楽しいお菓子で、少しでも皆さんに明るい気分になっていただきたいと思って作りました。

鳥の巣を模して作るパックの伝統的なお菓子「ニ・ド・パック」は、卵やニワトリのムラージュのショコラを山盛りのせて、にぎやかに楽しく仕上げてみました。また、子供の日には、「ニ・ド・パック〜子供の日バージョンを出しました。子供たちが喜んでくれるのを見ると、本当に嬉しくなります。

この楽しい行事菓子が多くの方に知られるようになってほしい。特に今年の春は、お菓子を通して、皆さんに元気や明るい気分をお届けすることの大切さを本当に強く感じました。 (2011.5)

藤森 二郎(ビゴの店)2011年04月30日

3月11日に東日本大震災が起こりました。皆さん大丈夫でしたか?
僕は丁度ビゴさんと河田シェフと3人で溜池山王の「ビストロ・ボンファム」でランチでした。写真1は地震後。

ムッシュは阪神大震災経験者の割にはバタバタ?河田シェフは震度を言い当てたり、案外冷静?僕のヒラメのムニエル・ボンファム風の皿に花瓶の水がバシャア!と台無し?いの一番に関西の西川シェフから大丈夫?電話がありました。後から聞いたら、その時たまたま、宝塚にいた永井シェフにも、お見舞い電話したそうです。そのあと消防団のヘルメットを被って作業服の町内の消防団長、マイスター栢沼シェフが「大丈夫でしたか?」と偶然遭遇。ガトーボワの林シェフからも、お見舞いメール到着。

いやはや車は大渋滞、ムッシュを都心のホテルに送り、麹町にいた、島田ジュニアをピックアップして、家に着いたのは明け方でした。いやはやとんだ1日でした。翌日から連日食パンを買い求めるお客様が店に殺到?鷺沼の近所のSジェルマンやRマーメイドは、小麦粉や材料をきらして休業?ヤバい!うちはムッシュが手配してくれたトラックが粉120袋を積んで 関西から爆走!、明け方に到着!やっぱりムッシュの判断力はスゲェ!と感心!

携帯にエスプリ・ド・パリの鈴木さんから「食パンの作り方教えて!」(笑)続いてエルメのシェフ、ドラピエさんから、今大阪だって?代官山のパッションさんから、今長崎だって?フランス人どこ行っちゃったの?誰か1人ぐらい?いないの?いました!いました!オリーブ屋さんのリュックがいました。「偉い!お前は!」と言ったら・・「お金がないから」だって。

そんなところにピュイサンスの井上シェフや、我らがノリちゃんと西野さんたちが被災地に行くと立ち上がりました!出発夜ピュイサンス迄パンを届けに行き、倉庫を見てびっくり!全国のパティシエから焼菓子の入った段ボールの山。日本の菓子屋!やるじゃねぇか!オーブン・ミトンのルミちゃんも協力させてくれと・・。ドミニク・コルビから郡山に行くからパンを千人分の依頼アリ。どうやら大森ユッキーも参加。

パニック!パニック!横浜港南台高島屋の店は計画停電ばっかし・・イライラ。僕も6月に岩手県の知り合い中学校にパンとお菓子、牛乳?持って行く予定です。早くみんな落ち着くように!頑張りましょう!写真2は鷺沼の店の前の桜です。来年はゆっくり見れるかな?慌ただしい一ヶ月でした。でも緊張感でいっぱいでした。
(2011.4)

フィリップ・ビゴ(ビゴの店)2011年03月31日

親愛なるガレット・デ・ロワクラブの皆さん、ボンジュール!

日本に初めてフランス人のパティシエが来てから約55~60年が経っていますが、おそらく初めてのガレット・デ・ロワも同じ頃に上陸したのではないかと思います。
私自身は日本に来て47年ですが、最初からガレットを作っていました。当時、このカトリックのお祭りを理解頂き、そしてガレットを広めていくということは、本当にむずかしいことでした。
今日、本クラブでは多くの方がガレットの風習を知って下さっていますが。

私はパン屋を営む家に生まれました。私の子供の頃のフランスでは、宗教は人の生き方や日常生活に多くの影響を与えるものでした。また、キリスト教も大きく分けるとカトリックとプロテスタントの二つがありますが、カトリックにおける教会の存在は大きく、そこが司る祝祭日も大変身近なものとして人々に受けとめられていました。1月6日のエピファニーもそのひとつ。12月25日にナザレで誕生したイエス・キリストを訪ね、三聖人がお祝いを述べたというこの日は、ロワ(王:この場合は三聖人)のお祭りの日ということになりました。

ガレット・デ・ロワはバターの多すぎないフイユテ生地の中にわずかなラムの香りをつけたアーモンド・クリームを詰めて作られます。もちろんフェーヴを入れることを忘れてはいけません。
そしてできることなら、人々が集い親睦を深める場にふさわしいお菓子であるということを理解して、作ってほしいのです。
誰もが好きなシンプルなおいしさ、厚みはひかえめ、そして値段も高すぎない。これが真のガレット・デ・ロワ。
大きさは6~8人用、8~10人用、10~12人用というあたりがスタンダードでしょうか。人数がそれ以上なら…切り分けるのも一苦労、そしてフェーヴも争奪戦に?いやはや大変な騒ぎになるでしょうね。(2011.3)

フレデリック・マドレーヌ(ル・ポミエ)2011年01月31日

1月はガレット・デ・ロワの月。
まず少し歴史を振り返ってから、私の思いをつづってみましょう。

ローマ時代、サテュルナルの祭りというものがありました。これは7日の間、各自が気ままにふるまえる、無礼講のようなものだったといいます。そして後に、これが友人にお菓子を贈る慣わしへと変わっていき、やり取りされるお菓子は「王様のお菓子」と呼ばれていました。なぜなら人々が領主に税を納める時期と、ちょうど重なっていたからです。
1801年、エピファニーはキリストが人々の前に姿を現したとされる1月6日と決められました。
「エピファニー」とは、メルシオール、ガスパール、バルタザールの三賢者が幼子キリストを訪ね、没薬(もつやく)と香と金の贈り物を届けたことを祝うものです。

昔からの慣習に従って、現在でも、その場で一番小さい子供がテーブルの下に入り、切り分けたガレットを一切れずつ誰に配るか指示します。そして自分の切れからフェーヴが出てきたら、その人は王様(または女王様)。お気に入りの女性(または男性)を選び、キスすることができるのです。そして王様(または女王様)は次の日曜日、皆のために新たにガレット・デ・ロワを作るか買うかしなければなりません。フランスはこのガレットの伝統が最も浸透している国であり、1月中に何度もガレットを食べることもめずらしくはありません。

また、フェーヴは愛好者にとって、価値のあるコレクションです。今では陶製のフェーヴが一般的ですが、その昔は本当の豆をガレットに隠していました。後に銀や金のかけらになり、そして19世紀末に陶磁器製が出現したのです。そのずっと後にはプラスチック製も。

クラブの活動としては、3年前、着任したばかりのフィリップ・フォーレ大使に、エピファニーの催しのために公邸をお借りできるかを伺いに行ったときのことを思い出します。その場で快諾を頂き、それは大使のエピキュリアンとしての評判を知らしめることになったのではと自負しています。また、名誉会員であるフランソワーズ・モレシャンさんが、常に我々を支持してくださることも決して忘れません。

2009年のエピファニー、当クラブは200人の会員を集め、大使とともに楽しいひとときを過ごしました。翌朝、私は新潟へ2日間のスキー旅行に出かけたのですが、スキー場のリフトに腰掛けたとき携帯が鳴りました。それはフォーレ大使からで、昨晩の会はすばらしかった、にぎやかで楽しい雰囲気が会場のすみずみまで行き渡っていた、というお褒めの言葉でした。そしてなんと、「今月末に同じ会をもう一度企画してもらえないか。仕事で関係のある日本の官僚をぜひ招待したい」というお話が!
リフトから降りるや、私はクラブ事務局の田尻さんに電話をしたのですが、つながりませんでした。彼女はガレット・デ・ロワコンテストの優勝者を連れてパリのコンクールに向かうべく、すでに機中の人だったのです。そこで島田会長と藤森理事に連絡をつけ、彼らの了解を得ました。1月27日と日取りも決定。
またもやクラブの理事たちは同じ催しを取り仕切ることとなりましたが、会は大盛況で、終わったとき会場の大テーブルに残っていたのは、散らばったガレットのくずがわずか数片だけでした。

5歳になる息子のテオフィルも、もちろんガレット・デ・ロワが大好き。たいていのフランスの子供がそうするように、自分のガレットをもらうとまっさきにフェーヴがあるかとフイユテ生地をめくっています。私はフェーヴの入った切れが息子に当たるよう知らぬふりで渡し、彼が大喜びするのを眺めるのです。
(2011.1)